入会をお待ちしています 090-5484-5794 Sasaki。

古代史の会・大分」の概要

 当「古代史の会・大分」は、日本列島に国家が成立する古代について、遺跡・遺物や文献などを通じて学ぼうとしている人達の集まりです。日本の古代のみならず、広く東アジア諸国、先史時代も対象としています。  
 具体的な活動として、考古学や歴史学の専門家を招いての講演会や会員の研究発表を行う月例研修会(例会)、国内外の遺跡や博物館の見学会(研修旅行)などを行い、会員の研鑽と親睦を図っている他、原則として年1回会誌の発行、有志にによる遺跡探索などの活動を行っております。  
 会の名称は、1986年2月22日発足当初の「大分の中の古代朝鮮文化を考える会」を経て、作家の故金達寿氏の助言により「古代朝鮮文化を考える会」として30年の長きにわたり親しまれてきましたが、名称から誤解を受ける事例も多々あり、この度「古代史の会・大分」と改称することになりました。
 なお、月例研修会、研修旅行、会誌への投稿は、会員外の方も自由に参加していただけます。

お知らせ・更新情報

重要なお知らせ!

・お詫び
管理者の一身上の都合により、本サイトの更新が、滞っており、皆様方には多大の御迷惑をおかけしております。誠に申し訳ございません。来期には復活させたいと存じますので、もうしばらくお待ち下さい。
なお今年度は下記を予定しています。
・10月13日(水)
 会員 佐々木洋氏の研究発表
 毛野の舟形石棺
・11月9日(火)
 オンライン講座を予定。(テーマ未定)
・12月14日(火)
 埋蔵文化財センター 横沢 慈 先生の講演
 豊後大野市三重町「上田原東遺跡」について
 併せて総会を開催いたします。

・8月例会は、予定していた講師の先生が体調を崩され、講演をいただけなくなりましたので、演題と講師を変更いたします。当会会長佐々木洋さんに、10月見学予定であった西北部九州の前方後円墳と装飾古墳についてお話していただきます。
なお10月及び12月に予定していた研修旅行は、全てコロナ感染予防のため中止致します。
・7月より例会に限り活動を再開致しています。引き続き、例会は新型コロナウイルス感染防止のため、下記を遵守して御参加下さい。

①マスクを必ず着用して下さい。
②入室のさいは、手指を消毒して下さい。消毒液は事務局で準備いたします。
③会費は極力釣銭がないよう、あらかじめご準備ください。
④席は、隣り合わせにならないよう、1席空けて下さい。満席になりました場合には、参加を遠慮願うことがあります。
⑤不要な会話は、極力控えて下さい。

・会誌が発行されました。(会誌名変更『古代史の会・大分』『古代朝鮮文化を考える会』の後続で通算32号となります。)
・当会会長の佐々木洋さんが著書を刊行されました。題名は『筑紫君「磐井」の列島支配ー石棺 石室 装飾画 冠 などより―』 本体価格1,800円です。目下amazonのネットショッピングで購入できるよう手続き中です。
・12月12日総会で、例会参加費を300円から500円に変更することが議決されました。
・サブメニューに、他の歴史研究会が行っている講演会等の予定「古代史関連講座情報」を追加しましたので、参考にして下さい。
・活動状況は3ケ月を過ぎますと消去することがあります。残したい方は、ページをアーカイブで保存して下さい。
・研修旅行の風景(スライド)を新設しました。左のサイドメニューをクリックしてください。
・会の名称の題字を新しくしました。当会会員松本吉平氏の御令嬢で書道家の宇喜多美由紀様の揮毫によるものです。
・12月13日開催されて総会で、会の名称変更が議決されました。 新しい会の名称は「古代史の会・大分」です。

20200727
・重要なお知らせを更新しました。
・7月例会は終了しました。
2020/03/28
・「重要なお知らせ」を更新しました。
2020/03/28
・「重要なお知らせ」を更新しました。
2020/02/12
・2月例会「古代の瓦」は終了しました。
2020/01/16
・2020年1月例会「日」の神と「月」の神の信仰は終了しました。
2019/12/10
・12月例会「研修旅行報告(香川県の古墳と石棺)」は終了しました。
2019/11/23
・11月例会「国東の文化財探訪」は終了しました。
2019/10/22
・研修旅行「日田・玖珠の装飾古墳見学」は終了しました。
2019/10/12
・10月例会「古代博多湾貿易」は終了しました。
2019/09/13
・9月例会「書評 加藤俊平著『双脚輪状文の伝播と古代氏族』」は終了しました。
2019/07/09
・7月例会「前方後円墳から方墳へ」は終了しました。
2019/06/13
・6月例会「豊前の廃寺はどこから」は終了しました。
2019/05/25
・研修旅行「香川県の古墳と資料館を巡る旅」は終了しました。
・5月例会「大分市丹生に辰砂はあったか」は終了しました。
2019/04/11
・4月例会「豊前の古墳と集落遺跡」は終了しました。
2019/03/15
・3月例会「鬼の岩屋古墳と装飾画」は終了しました
2019/02/22
・2月例会「大分の古墳と集落遺跡」は終了しました。
2019/01/18
・1月例会「ビデオ鑑賞『装飾古墳』」は終了しました。
・12月例会は終了しました。
・総会・忘年会も終了しました。
2018/11/28
・研修旅行「大分東部、及び臼杵の石甲・石棺をもつ古墳を巡る旅」は終了しました。
2018/11/13
・11月例会「邪馬台国研究はどこまで進んだか」は終了しました。
・11月研修旅行は、11月27日(水)に決定しました。
2018/10/23
・10月の研修旅行「筑後川中流域の装飾古墳」は終了しました。
2018/10/10
10月例会「西国東の古墳群」は終了しました。
2018/09/26
・9月の研修旅行(伊予・讃岐)は中止となりました。
2018/09/18
・9月例会「宇佐神宮大比売大神は「瀬織津姫」」は終了しました。
2018/08/09付
・8月例会「書籍紹介『家族、私有財産及び国家の起源入門』不破哲三について」が終了しました。
2018/07/15付
・7月例会「研修報告(古代吉備王国の遺跡を巡る旅)」が終了しました。
2018/06/15付
・トップメニューに「活動予定」を追加しました。クリックで直接「活動予定」が御覧になれます。
・6月例会が終了しました。
2018/06/08付
・研修旅行「大野城、水城、前畑遺跡、老司古墳、梅林古墳を巡る旅」は終了しました。
2018/05/11付
・研修旅行「古代吉備王国の遺跡を巡る旅」の写真をYouTubeに公開しました。(左のサブメニューの「スライド」をクリックして下さい。)
2018/05/10付
・5月例会「神籠石は九州王朝の城だった」は終了しました。
2018/0416付
・研修旅行「古代吉備国を巡る旅」は終了しました。
2018/04/14付
・4月例会「古代朝鮮半島と日本列島の 武器・武具」は終了しました。
2018/03/15付
・3月例会「卑弥呼の託宣」は終了しました。
2018/02/23付
・4月研修旅行「古代吉備国を巡る旅」満席となりました。
・5月研修旅行は5月15日(火)に決まりました。
・2月例会 研修報告「壱岐の弥生遺跡・古墳群」は終了しました。
2018/01/28付
・1月例会「ビデオ鑑賞」は終了しました。
・4月研修旅行「古代吉備国を巡る旅」は 4月11日(水)~4月13(金)定員9名で実施することになりました。
2015/07/25
ホームページ開設

活 動 状 況

・2020年7月の例会は、九州古代史の会の工藤常泰先生による講演「弥生の硯、漢字、邪馬台国」でした。
最近相次いで、北部九州を中心に日本列島で、弥生時代から古墳時代の硯が発見されていることから、邪馬台国の時代にすでに日本で文字が使われていたと思われることや、漢字の始まり、漢字が何時頃日本に伝わったかなどについて、興味ある話をうかがうことが出来ました。

例会風景
講演される工藤先生

・2020年2月の例会は、大分県埋蔵文化財センターの友岡信彦先生の講演「古代の瓦」でした。
瓦の起源、日本の瓦の歴史概略、九州の古代寺院の瓦、古代瓦の製法や葺き方、畿内系瓦(法隆寺系、川原寺系)、大宰府系瓦(鴻臚館系、老司系)、大陸系(百済系、新羅系、高句麗系)の軒瓦の文様の特徴についての解説や伝播などについて講義されました。
日本最古の瓦は、蘇我氏(蘇我馬子建立)の氏寺、一般に飛鳥寺と呼ばれる法興寺(現在では元興寺)の建立瓦である。それ以前に筑前、豊前でいわゆる須恵器瓦と呼ばれる瓦が作られているが、定着に至らず消滅する。したがって本格的な瓦は飛鳥寺建立瓦が初現となる。大和に続いて各地に寺院が建立されるようになり、畿内から伽藍配置の様式や瓦が伝播する。

例会風景
講演される友岡先生

・2020年1月の例会は、会員の玉田さんの研究報告でした。
隼人の国の女神-比咩大神の異称祭祀と題して、八幡大神と豊前のかかわり、霧島の姫城に見える隼人の信仰、神相撲をする中津市の古要神社や豊前の古表神社のことを紹介し、古表神社では美しい白雲が西の方より飛来し明月の如く光輝いく女神が乗っておられた神を神功皇后と語り、中津の闇無浜神社では日輪の像をいただける神女が白雲に乗って来降して、「吾は瀬織津姫神なり」と託宣したと伝えられていること、天孫降臨の地や笠沙の岬の神話に触れ、インドネシア諸島に伝わるバナナ型神話が、大山積神の子、イワナガヒメとコノナハサクヤヒメの神話と同じモチーフと考えられることなどに触れられました。
又、佐賀の淀姫神社や豊姫が宇佐の姫大神と同体として伝わること、伊勢神宮と宇佐神宮に同じ神の伝承があることなど宇佐氏の古伝などを紹介されました。

例会風景
研究発表をされる玉田さん

・12月の例会は、佐々木会長による5月に行われた研修旅行「香川県の古墳と石棺」の報告でした。
内容は既に掲載済みですが、見学した古墳、石棺、資料館の展示品などを佐々木会長の持論である「九州勢力の進出」の観点から解説されました。
例会終了後、総会、忘年会を行いました。

例会風景

・11月の例会は、フィールドワークで、前国東市歴史体験学習館館長の金田信子先生の案内による「国東市の文化財探訪」でした。
黒津崎古墳群、狐塚古墳、川原の板碑、泉福寺、安国寺集落遺跡公園『弥生のムラ』を見学ししました。
・黒津崎古墳群は3群からなる横穴式石室を持つ円墳で構成された後期群集墳で、19基が確認されているが、大半が開発などで削平破壊され、原型をわずかにとどめているのは数基のみである。群中最も北側の3群の北に神社を祀るマウンドがあり、調査はされていないが、金田先生によると最も北限の古墳ではないかとのことである。
・狐塚古墳は、前期の古墳で柄鏡式前方後円墳と言われているが、円墳ないし帆立貝式古墳との説もある。いずれにせよこの当たりの最初の首長墓であろう。
・川原の板碑は刻銘により1319年、1920年に供養のために建立されたもので、文殊信仰が伺えるとのことである。金田先生によると、この地はかつて紀氏の支配下にあり、紀氏は文殊信仰と深い関係にあった。その後田原氏が進出してきて、文殊信仰を上手く利用して紀氏を取り込み支配を固めてたが、やがて大友氏と対立し衰亡することになったとのことである。
・泉福寺は、1375年この地の豪族田原氏能が、高僧無著妙融禅師を招聘して開山した禅の修行道場で、九州最初の禅様式の寺院で曹洞宗九州総本山である。大友宗麟の兵火に会うが細川忠興の寄進で再興、その後元禄時代に根本修理、昭和に茅葺屋根を鉄板葺きに替えられたが、平成17年から19年に解体修理が行われた際元禄修理の姿に戻された。
開祖無著禅師墓塔を納める泉福寺開山堂、泉福寺仏殿は国指定の重要文化財である。国指定重文ではないが、石造の仁王像を伴う山門も見事なものである。
今回普段は一般には見せない開山堂の木像を見ることが出来た。また平成の解体修理に、前住職の無着成恭師の尽力や本堂を一人で寄進した横浜の篤志家の話など金田先生から裏話を聞くことが出来た。
・安国寺集落遺跡公園『弥生のムラ』は、有名な安国寺式土器が出土した国指定の弥生集落遺跡である。復元された集落建物は、乞食小屋などと揶揄されることもあるが、実際に出土した木材を元に忠実に再現された貴重なものである。弥生集落遺跡でこの遺跡ほど多量の木材が出土した例は他に無く、かの吉野ヶ里遺跡などの復元建物は、出土した木材を元にしたものでなく想像復元だそうである。金田先生は、この遺跡の発掘保存復元に従事された方で、当時の苦労話を交えた丁寧な説明を聞くことが出来た。

黒津崎古墳群の石室を見る一行
狐塚古墳の周りを歩く一行
川原の板碑
泉福寺開山堂内の開祖無著禅師像
国指定重文泉福寺仏殿
安国寺集落遺跡公園『弥生のムラ』
復元建物を見る一行

・10月の研修旅行は、日田・玖珠の装飾古墳見学会でした。参加者は17名。天候に恵まれ、絶好の見学日和となりました。玖珠の鬼ケ城古墳、日田の法恩寺古墳、ガランドヤ古墳、穴観音古墳を見学した後、日田市埋蔵文化財センターを見学しました。
線刻装飾の鬼ケ城古墳を除き他の古墳は、入口が閉じられ石室内部を見ることが出来ず残念でしたが、説明板などで想像して、は互いに楽しく意見交換をしました。

      鬼ケ城古墳
     法恩寺古墳群案内板
       法恩寺3号墳
      ガランドヤ古墳
       穴観音古墳
     穴観音古墳案内板
  日田市埋蔵文化財センターにて

・10月例会は、大分市教育委員会の長信直先生の講義で、久住猛氏の炉の論じる「博多湾貿易」の紹介と「弥生時代の文字使用」を主なテーマとする「近年の古墳時代初頭前後の研究状況」でした。
一つ目は、膨大な土器のデータから、弥生後期から古墳時代前期の対外交易の拠点は北部九州が中心で、弥生後期から終末期(2世紀から3世紀第一四半期)は、壱岐を含む伊都国、古墳時代早期から前期前葉は、那国(中枢部は比恵・那珂遺跡)に移り、古墳時代前半に最盛期を迎える(中枢部は西新遺跡)。
この間国内の交易でも中心的な役割を果たし、ネットワークが構築されていたと思われる。しかし、古墳時代前期後半から後期末に突如として衰退し、国内の他地域の拠点であったと思われる大集落も衰退する。この原因は、畿内王権が北部九州を介さず直接に交易するルートを持つに至ったと考えられている。
なお、これに関連して従来九州の前方後円墳は、畿内の纏向型前方狗円墳の一方的伝播と考えられてきたが、福岡市の那珂八幡古墳は土器の分析から発生期の古墳と考えられ、このタイプ(那珂八幡型)の古墳が幾つか見られ、畿内とは別に発生したとの久住猛氏の説も紹介された。(サイト管理者注:但し、久住2016「九州の前期古墳の成立」を見ると、"纏向型の影響は否定出来ないが"との一文があり、纏向型と無縁と主張しているわけではないようである。)
大分平野については、上記ネットワークの盛衰を証明するのは難しいが、無縁であったとは考えられないとのことである。
二つ目は、最近従来砥石と考えられていた石器が、砥石であることは判明するなど、弥生時代の砥石の発見が相次ぎ、弥生時代の文字使用に関する従来の見解の再考が迫られているようである。
また、国家形成論と古墳時代前半期の社会の評価についても少し触れられた。
詳しくはレジメを参照して下さい。
那珂八幡古墳については、こちら新聞記事も参照して下さい。

講義風景
講義される長先生

・8月例会は、会員の高坂孟承氏の書評「加藤俊平著『双脚輪状文の伝播と古代氏族』を読んで」でした。
著書は、「縄文平行期から沖縄で魔除けに用いられたスイジガイの辟邪の思想を受継いで、「貝の道」の主宰者である火君多氏によって作られ、釜尾古墳で発現したのち、紀伊に伝播し西日本型双脚輪状文埴輪(双脚輪状文埴輪)ととなり、更に東日本に伝播して東日本型双脚輪状文輪状文埴輪(翳型埴輪)に変容した。これらの伝播には、火君多氏、紀氏、上毛野らの有力古代氏族の交流が深く関係している。また同じく双脚輪状文輪状文埴輪である磐城の神谷作101号墳出土のものは、火君多氏の東国への移住によって直接創出されたものである。」とされるに対し、評者(講演者)は、火君多氏の本拠地肥後にはスイジガイの釧やスイジガイを線刻した埴輪などが見られないこと、釜尾古墳の築造時期が紀伊の双脚輪状文埴輪出土古墳に先行すると考える根拠が希薄で、逆に紀伊の古墳が先行する可能性もあること、高度に抽象化された文様から埴輪が作られる例が見られないことから、むしろ紀伊の双脚輪状文輪状文埴輪が、肥後で双脚輪状紋として表現されたのではないか。そうなるとモチーフがスイジガイであるとことも再検討する必要があるのではと疑問を呈した。また神谷作101墳出土の双脚輪状文埴輪は、新たに創出されたものではなく、東日本型双脚輪状文埴輪、埴輪に彩色する東国の風習、肥後の影響を受けた装飾古墳・装飾横穴墓の文様文化が複合したものとみるべきではと疑問を呈した。

双脚輪状文
双脚輪状文埴輪、

・7月例会は、みやこ町歴史民俗資料館の井上信隆先生の講義「前方後円墳から方墳へ」でした。
最初に古墳、特に前方後円墳は、畿内(石室)、吉備(墳丘、葺石、埴輪)、九州(鏡、剣などの副葬品)の埋葬文化が融合したものとの見解を述べられたのち、主として京都平野の古墳にについて興味深い話をうかがうことが出来ました。都平野では、6世紀後半に首長墓としての前方後円墳の築造が終了すると同時に大型の方墳(甲塚古墳、橘塚古墳、)や円墳(綾塚古墳)が出現する。また横穴式石室を伴う群集墳が多数築造され、1200基以上にも達すると推定される。
甲塚古墳は、九州最大の方墳で、畿内の方墳に引けを取らない。橘塚古墳は、大英博物館に残されたウイリアム・ガウランドの調査記録を見ると、上円下方墳の可能性が高い。これからの検証次第では、上円下方墳の起源の定説が覆る可能性がある。またこれら大型方・円墳の横穴式石室は巨石を用いた長大な石室である。綾塚古墳石室内の石棺の石材は在地の石材ではなく、畿内地方の石材の可能性が高く(赤坂天王山古墳と同じ)棺の形式も畿内型家形石棺で、奈良の植山古墳出土のピンク石石棺に酷似する。横穴式石室に密閉型の家形石棺を納める葬法も畿内的であり、ヤマト王権との密接な関係が窺える。地理的に畿内・瀬戸内と大宰府を結ぶ交通路の要衝にも当たり、当時の朝鮮半島情勢から見て京都平野は、壱岐、宗像等と同じくヤマト王権にとっての重要な地であり、兵站基地であった可能性が高い。

講演される井上先生
 
聴講風景
 

・6月例会は、宇佐の文化財を守る会会長の小倉正五先生の講演「豊前の廃寺はどこから」でした。
講演要旨は下記のようでした。
豊前は九州の中では、古代廃寺の数が大宰府がある筑前と同じく多い。しかし豊後は少ない。その理由は、太宰府(官道)と畿内(航路)を結ぶ交通の要衝であったこと、熊襲・隼人への対応の拠点(宇佐神宮の神威を含め)であったことなのではなかろうか。
創建古瓦の様式を見ると、畿内系の瓦を持つ寺院の他、百済・新羅・高句麗系の瓦を持つ寺院、田川の菩提廃寺のように老司系の瓦を持つものもある。全てが畿内からの伝播ではなく、韓半島から伝わったものがある可能性がある。
その他、よく知られている隼人征伐への宇佐神宮の功績、や法蓮の事績に触れられ、神仏混淆や、放生会は法蓮が創出したものととの見解も述べられ、放生会に用いるニナは海幸山幸神話と関連するとか、傀儡の舞は、ヤマトトタケルが隼人征伐で女装した伝説と関連するなど新説も披露され、興味ある話が多く聞くことが出来た。
また、一般には見ることが出来ない宇佐神宮本殿の内部の障壁画の画像も見せて頂いた。
注)演題と講義の内容との結びつきが理解し辛く、講演要旨はサイト管理者の独断の感が強い。御指摘を歓迎する。

講演される小倉先生
 
聴講風景
 
宇佐神宮本殿障壁画
 

・5月研修旅行は、讃岐の古墳や石棺と資料館を巡る旅でした。
線刻の装飾が施された宮が尾古墳、三豊平野の三大巨石墳(椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳)、菊池川流域から運ばれた阿蘇凝灰岩製石棺を納める丸山古墳、積石塚古墳で築造当時の姿に復元された野田院古墳、多数の積石塚や土盛古墳からなる石清尾山古墳群中の石船塚古墳や鏡塚古墳、割竹形石棺の磨臼山古墳石棺、弘法大師空海ゆかりの善通寺、朝鮮式山城の城山城跡などを見学し、大いに盛り上がりました。見学個所は下記の通りです。(見学順)
宮が尾古墳(有岡古墳群)→宮が尾2号墳(同)→王墓山古墳(おおはかやまこふん、有岡古墳群)→善通寺→磨臼山古墳石棺(有岡古墳群、善通寺市市民会館ロビー)→善通寺市郷土資料館→母神鑵子塚古墳(母神山古墳群)→観音寺市ふるさと学芸館(丸山古墳出土阿蘇凝灰岩製石棺破片)→大野原三大巨石墳(角塚古墳、平塚古墳、椀貸塚古墳)→琴弾公園(銭形砂絵)→丸山古墳(有岡古墳群)→野田院古墳(有岡古墳群)→石船塚古墳・鏡塚古墳(岩清尾山古墳群)→城山城跡(画像は順不同です。)

 
磨臼山古墳石棺
 
善光寺
   
有岡古墳群説明板
 
宮が尾古墳
   
丸山古墳石棺の縄掛突起部
 
城山城跡城門にて
   
石船塚古墳にて
 
石船塚古墳石棺
   
野田院古墳
 
丸山古墳発掘調査時の写真
 
 

・5月例会は、会員の髙坂の研究発表「『豊後風土記』丹生郷の朱は辰砂か」でした。
文献、地球化学図、考古学から丹生郷の中心地とされる地域で、辰砂が大量に産出したとする従来の見解に疑問を呈し、最近の発掘調査の結果からは、ベンガラの可能性が高いととの見解を披露しました。

発掘されたベンガラ

・4月例会は、北九州市埋蔵文化財調査室の安部和城先生の講義「豊前北部地域における集落と古墳の動態」でした。
最初に北部九州を、門司、板櫃川流域、紫川上中下流域、周防灘沿岸・曽根平野、八幡地域、響灘沿岸(若松)、周防灘沿岸・苅田に分けて、①集落と古墳の分布、②集落遺跡と墳墓、?集落の存続期間とその特徴、④竪穴式住居の特徴を説明された。その中で最近石棺内から大量の朱が出土したことで有名になった城野遺跡で、石棺は小児用で近傍には大人の墳墓が無いことや、玉造工房が確認されたことなど興味を引く話題がほうふであった。  集落の消長では開始と終焉の時期から4つのタイプに分かれるようであるが、全体的には弥生後期から始まり(58集落)、弥生終末期に最盛期を迎え(142集落)、古墳時代前期で減少に転じる(78集落)らしい。また苅田地域では弥生時代終末期以前の集落は殆ど確認されず、古墳時代前期から集落が形成されるようで、苅田地域以外は、弥生終末期以降古墳時代の集落が急速に減少するようである。  青銅器の分布と古墳をの分布をみると前方後円墳に埋納された鏡を除くと、前方後円墳築造地周辺には青銅器が殆ど見られないようである。  また豊前北部地域における前方後円造は、弥生時代から培われ成長した勢力とは異なった地域に築造されている。その背景は耕作地の狭小や周防灘に面した地理的要因が考えられるとのことである。石塚山古墳は曽根平野と京都平野の境界部分を選択したと思われ、強力な政治的影響力が存在したと思われるとのことである。  最後に古墳築造の理論的背景について考えるべき課題として次のようなことを挙げられた。 ①空間的にどの程度接近する範囲の古墳を一つの首長系譜とみなすか。  共通の基準はなく、個々の論者にゆだねられている。 ②一つの古墳の造営基盤にどこまでの広がり(労力・資材供給範囲)を想定するか。  論者の主観が投影されがちである。 ③古墳は何処に築かれたか。  特定集団がその本貫地に墓域を営むとの前提で論じられるが、厳密な対応関係は実証さ  れていない。  特定集団と何らかの繋がりを認めないと、考察の手段がなくなるとの懸念もある。 最後の課題はかなり難解な議論であるが、最も興味ある課題の一つでもあると思えた。(サイト管理者感想)

      
講義される安部先生
      
聴講風景
      

・3月例会は、別府大学の玉川剛司先生の講義「鬼の窟屋古墳装飾について」でした。
別府市の古墳時代の遺跡、①田ノ湯石棺群、②春木芳元遺跡1・2号石棺、③太郎塚・次郎塚古墳、鷹塚古墳、天神畑1号墳など実相寺古墳群、④浜脇横穴墓群、⑤鬼ノ岩屋古墳群1.2号墳、⑥北石垣遺跡につき概説され、鬼ノ岩屋古墳の装飾文様について現在までの解明状況を説明されました。
春木芳元遺跡の石棺には2基とも蓋石がないこと、太郎塚・次郎塚は二つの円墳が接近して築造されていることが明確になったこと、近年の発掘調査で鷹塚古墳が九州では数少ない方墳で被葬者が畿内勢力と密接な関係にあったことが推定されること、実相寺古墳群にはもう一つ横穴式石室をもつ古墳が確認され近く調査が行われること、建物跡は未だ発見されていないが北石垣遺跡が古代速見郡の中心地だった可能性が高いこと、など興味ある話を聞くことが出来ました。
また鬼の岩屋古墳2号墳(TK43 1号墳に先行する)は、装飾文様に靭、盾、船、双脚輪状文、馬、人物などが確認され、それらの文様は筑後川下流域を起源とすると考えられ、筑後川下流域の古墳文化伝播の東端、かたや1号墳(TK209)は、肥後を起源とする石屋形を持ち、石室構造は阿蘇の上御倉古墳に酷似していることから、肥後の古墳文化伝播の東端と考えられ、二つの古墳文化が一緒になった所であるとの興味ある見解を示されました。
また装飾文様の中には不明なものもあり、それらをを明らかにするとともに、装飾文様と石室構造の関係を明らかにして、古代九州の他界観や葬送儀礼を解明したいと結ばれました。
その他珍しい双脚輪状文や双脚輪状埴輪は「紀氏」と関係するのではとの説があることも紹介されました。

演題
講演され玉川長先生
聴講風景

・2月例会は大分市教育委員会の長直信先生の講演「大分の古墳と集落遺跡」でした
以前発掘調査に携わられた福岡平野の古墳と集落の消長から4世紀末から5世紀にに画期があったことを踏まえ、大分の古墳時代の諸勢力、渡来文物、集落と墳墓の消長と画期について述べられました。
特に古国府遺跡群を例に具体的な画期の特色について詳しく述べられました。
①比較的長期に集落遺跡が形成されている。
②祭具から見て大分平野、豊後全域からみて優位性が見られる。
③6世紀末から7世紀前半頃に官衙的要素のある建物や鍛冶関連遺跡が見られる
④6世紀末から7世紀前半頃に近畿地方からの埋葬思想の影響が強く認められる。つまり、この時期在地社会が維持してきた習慣などと異なるものが突如出現したと解される。
また、近年の古墳時代研究について諸氏の見解を紹介をされました。、
①鏡からみた古墳時代の国家形成論・地域間関係論(下垣仁志2018、辻田淳一郎2007)
②首長墓系列論の現在と親族論(清家章2018)
③古墳時代中期の画期としての貿易論(久住猛雄2007)
その他、大分市では渡来系の出土遺物が少ないこと、畿内由来の遺物であっても用い方によっては逆に畿内との関係が希薄である場合がある(久住町都野原田遺跡のペンダントとして用いられた石釧破片)など興味ある話も聞くことが出来ました。

演題
講演される長先生
聴講風景

・1月例会はビデオ鑑賞でした。『最新技術でよみがえる 九州装飾古墳のすべて』の付録のDVD動画の鑑賞しました。東大の池内研究室と凸版印刷株式会社が協力をし10基の古墳の装飾を明らかにしています。精密な計測により電子データ化がされており、その成果のCGを駆使した動画です。

石棺に彫られた直弧文
石室内の装飾(馬に乗る人物)

・12月例会は会長の佐々木さんの「『磐井の乱』は作り話」でした。「岩井の乱」はなかったという持論を展開されました。詳しくは重要なお知らせで紹介した佐々木さんの近著『筑紫君「磐井」の列島支配ー石棺 石室 装飾画 冠 などより―』を見て下さい。

講義する佐々木さん
研修風景

・例会終了後総会が開催されました。議事のうち研修旅行の実施時期につき異論が出て再検討をはかることになりました。
・引き続き場所を変えて忘年会を行い、古代史を肴に楽しい一時を過ごしました。

乾  杯
料理が来るまでしばし歓談

・11月研修旅行は、大分市の①海部古墳資料館、②上ノ坊古墳、臼杵市の③臼塚古墳、④神下山古墳、⑤下山古墳を見学しました。生憎と午前中は時々小雨がぱらつきましたが、殆ど濡れずに見学出来ました。
海部古墳資料館では、王ノ瀬石棺を中心に海部の古墳から出土した遺物を見ました。棺蓋長側辺に2×2の繩掛突起を持つ王ノ瀬石棺と類似の石棺は、熊本県宇土半島産馬門石製のいわゆるピンク石石棺(宇土半島から吉備や大和、近江に移送されていることが知られている)の他に、大分県大分市真萱神社石棺、宮崎県延岡市野田石棺、遠く離れた宮城県色麻町の念南寺(ネヤジ)古墳石棺、香川県東かがわ市岡前地神社古墳石棺などがありますが、ピンク石石棺は棺身と棺蓋の合わせが印籠合わせであり、真萱石棺、野田石棺、岡前地神社古墳石棺は突起の付く位置や角度少々が異ります。念南寺古墳石棺が形状的に近い様に思われますが、念南寺古墳石棺は盗掘のため蓋頂部が大きく楕円形に破壊されているのと、棺身が埋まったままなので確かなことはわかりません。考古学者の和田晴晤氏によれば南念寺古墳石棺はピンク石石棺や王ノ瀬を製作した工人が招聘され、彼の地で製作されたのではないかととのことです。
上ノ坊古墳はアプローチも悪く、案内板もなく迷ったあげくやっとたどり着いたものの、草木が生い茂り前方後円墳と識別するのも困難な状況で、やっと箱形石棺の部材と考えられる板石を確認出来ました。この古墳は4世紀の古墳で、多量の鉄剣や環頭太刀、銅鏡などが確認されており、一部の遺物は先ほどの海部古墳資料館で見ることが出来ました。多量の鉄製品を持つことが出来た被葬者はどのような人物だったのでしょうか。
臼塚古墳もマイクロバスでは直接のアプローチは不可能で坂道を歩いて到着、今は臼杵神社になっており鳥居をくぐると2基の石甲が出迎えてくれます。奥には覆い屋の中に2基の舟形石棺が置かれています。石甲はいわば石製の武具型埴輪で(短甲型石人と呼ぶ人がありますが、人物ではありませんので石人は不適切と思います)、後に有名な岩戸山古墳の石人石馬につながるものですが、この様な石甲が存在するのは他には同じ臼杵市の下山古墳のほかは九州の有明海沿岸しかも大牟田辺りにしかありません。臼杵で発生したのか、大牟田で発生したのか議論が分かれているようです。2基のうち1基は風化が少なく、通常このような石甲は古墳には1基しかありませんので、後世のレプリカとの見解が有力です。
墳長87mを誇るこの古墳は5世紀前半の前方後円墳とされ、朱が施された2基の石棺の中には人骨が残っており、外耳道骨腫が見られることから海人族の首長と考えられています。副葬品も数種の舶載銅鏡、鉄剣、短甲などの武具など多数かくにんされています。人骨は海部古墳資料館で見ることが出来ます。 2基の石棺も特徴があり、長側辺の縄掛突起の断面形状は方形になっています。よく似た石棺に大牟田市の黒崎山石棺があります。こちらは出土古墳が明確でないので製作時期を決められませんが、石甲のこともあり、彼の地と何らかのつながりがあるのかもしれません。会員の中には大牟田の方が早いと主張する人がありますが如何なものでしょう。
神下山古墳は、大体の所在はわかっていましたが、登り口が解らず迷いに迷った挙句、臼杵市の文化財担当の方に電話し、昼食後再チャレンジで墳頂にたどり着きました。この古墳は径20m程度の円墳で、臼塚古墳や下山古墳よりやや新しいと考えられており、墳頂にはこの古墳から出土した特徴のある舟形石棺が置かれていますが、棺身の部分は土中に埋められています。棺蓋の頂部に高く飛び出した棟を作り、その側面に三つの穴が等間隔にうがたれています。このような石棺は、大分県にしかなく、他に大分市世利門古墳、同第一高女古墳の二つがありますが、第一高女石棺は行方不明です。棺内には一体が埋葬され、鉄剣・鉄矛・勾玉・短甲・鉄鏃などが副葬されていたようです。
下山古墳も尾根からの道を目指いしましたが、マイクロバスが入らず、結局民家の横の崖に近い急坂をを登羽目になりました。この古墳は5世紀中ごろもものと考えられる全長68mの前方後円墳で、墳頂には覆い屋で保護された組合せ式家形石棺、くびれ部には上部が壊れた石甲1基があります。家形石棺からは、男女2体の人骨をはじめ、副葬品として、銅鏡、管玉、鉄刀、鉄鏃のほか、大量の鉄ていなどが出土しているそうです。鉄ていは、海部古墳資料館で見ることが出来ます。組合せ式家形石棺は、九州には類例極めてが少ない底板のある形で、棺身の長側板の木口部は長持形石棺のように突起が削り出されていています。棺蓋の斜面には帯状文が浮き彫りされいて、木口部は切妻屋根のように加工されています。
本日はアクセスに時間がかかり過ぎ、予定していた築山古墳、馬場古墳は訪れることが出来なかったのは残念です。


王ノ瀬石棺 長側辺に2×2の縄掛突起
上ノ坊古墳 草木に覆われて・・・
古墳の編年図 海部古墳資料館にて
上ノ坊古墳石棺材 緑泥片岩
臼塚古墳石甲
こちらは江戸時代のレプリカか?
元はくびれ部にあった 2基が覆い屋の下で大切に
臼塚古墳石棺を見学する一行
2号石棺 小さい方 1体の人骨
1号石棺 大きい方 2体の人骨
神下山古墳遠望
神下山古墳案内板
神下山古墳石棺 棟に孔が
下山古墳石棺 
カラスウリ 周辺の山道で
下山古墳石甲 上の方が欠けている

・11月例会は、行橋市歴史資料館館長の片岡宏二先生の講義「邪馬台国研究はどこまで進んだか」でした。
邪馬台国研究の歴史は、日本人が歴史にどの様に関わって来たか、日本国家の成り立ちに関わる重要な問題とどのようなに関わってきたのか、邪馬台国がどのような社会であったかと言う問題は、現代日本につながる重要な問題であると、その意義を強調された。そしてその研究史を振り返ることが重要な意義を持つとし、研究史を概括されたうえで、現在の状況を纏められた。
現在は邪馬台国九州説と畿内説が対立していることは衆知の通りであるが、九州説では①伊都国(三雲・平原遺跡)東遷説、②天木節(平塚川添遺跡)のほか、③八女丘陵室岡遺跡群、女山山麓山門遺跡群などがあげられる、畿内説は、纏向遺跡で一致している。そのほか、近年九州、畿内以外ににも大きな遺跡の発見が相次いでおり、「地域王権」論が台頭してきたことも紹介された。
今回は、邪馬台国の位置についての先生の見解は封印されたが、橋本増吉の説「『倭人伝』の行程記事の中で不弥国から邪馬台国までの行程は元々『魏略』にはなく、陳寿が書き加えたものであること(理由は陳寿が『倭人伝』を書いたころには、倭国の中心はヤマトに移っていたからである)、又方位は起点となる国から次の国に向かう出発時の方向をしめす」という見解を高く評価されている。先生は、『倭人伝』に書かれた国に当たる遺跡の研究を纏められているが、今回は時間の都合で言及がなかった。続編を期待したい。


講義風景
講義講義される片岡先生

・10月研修旅行は、筑後川中流域の装飾古墳を巡る旅でした。毎月第3土曜日に公開される古墳を地元のボランティアの方々の案内で見学しました。今回は、横穴式石室の内壁全面に赤、白、緑、などの顔料で、大形同心円文、蕨手文、連続三角文などが描かれている日岡(ひのおか)古墳、九州では珍しい長持形石棺を納め、金銅装眉庇付鉄冑など豊富な副葬品が発見された月岡(月の丘)古墳、石室は殆ど破壊されているが、奥壁に様々な装飾画が描かれた珍敷塚(めずらしづか)古墳、3室の複室構造の楠名古墳を見学した後、うきは市出土の遺物が展示されているうきは市立浮羽歴史民俗資料館を見学し、帰路には筑後川上流域の大分県玖珠町で、筑後地方の影響を受けたと思われる複室の装飾古墳である鬼塚古墳を見学しました。

  
日岡古墳案内板
上からしか見ることが出来ません。
本来はこのような模様
月岡古墳案内板
月岡古墳長持形石棺の木口の2突起
月岡古墳出土金銅装眉庇付鉄冑
珍敷古墳
珍敷古墳の覆屋の中は一杯になりました
楠名古墳
楠名古墳石室に入り切りません
玖珠町鬼塚古墳
鬼塚古墳奥壁の装飾

・10月例会は、豊後高田市教育委員会の岩男先生の講義「西国東の古墳群」でした。
西国東の主要部である豊後高田市には多くの古墳がありました。しかし残念ながら道路工事や圃場整備などでかなりの古墳が削平されたり消滅しましたが、中には国指定になってもおかしくない重要な古墳も残っており、史跡指定に向けて努力がなされているようで嬉しいことです。豊後高田に多くの古墳があるのは、この地が豊前豊後の境界にあること、海上交通の要衝であったことが大きいようで5世紀に首長墓が宇佐地域から豊後高田に移動したと考えっられるとのことでした。

今日は出席者が少ないようです。
講義をされる岩男先生

・9月例会は、会員の玉田さんによる「八幡信仰の真実」の講義でした。
論理構成は極めて難解ですが、結論的には「古代宇佐宮の原初信仰には、八幡大元大神という日神と、月神である八幡比売大神が奉斎されていたと考えられ、八幡比売大神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイズツノミタマアマサカルムカツヒメ)すなわち瀬織津比咩神である」というのが玉田さんの見解です。

講義する玉田さん
ホワイトボードには神様の名前が次々と

・8月例会は、会員の加藤さんによる2回目の講義です。日本国家の起源について、「建国記念日」が根拠がないという政治的批判も含めた不破氏の見解の紹介がありました。

不破氏の著書ををする加藤さん

・7月例会は、会員・副会長の安田さんが、研修旅行「古代吉備王国の遺跡を巡る旅」の報告をしました。

研修報告をする安田さん

・6月例会は、九州王朝説について支持する立場から会長の佐々木さんが自説の「有明王国」も含めて説明されたのに対し、疑問視する立場から髙坂さんが、主として古田武彦氏の説への疑問点を説明しました。川野さんの司会で当初予定された討論に至りませんでした。

九州王朝説を支持する佐々木さん
九州王朝説を批判する髙坂さん

・研修旅行「大野城、水城、前畑遺跡、老司古墳、梅林古墳を巡る旅」は、九州古代史の会の工藤常泰氏の案内で、太宰府政庁跡、観世音寺・戒壇院、水城、大野城を見学しました。九州王朝説からの遺跡の解釈や、大宰府政庁跡に隣接する丘陵から最近大量の鉄器が発見された話などを聞き、楽しい旅行でした。

工藤常泰さんから説明を聞く
大宰府政庁跡の石碑
古代寺院観世音寺
京都妙心寺と兄弟鐘とされる国内最古級の梵鐘
観世音寺戒壇院
水城遠望
大野城百間石垣の一部
大宰府政庁跡の模型

・5月例会は、筑紫古代文化研究会の永井正範氏による「神籠石は九州王朝の城だった」でした。要旨は次のようでした。
現在我国の古代朝鮮式山城は22基が確認されており、史書が載せないものは16基そのうち九州には10基、瀬戸内に6基あり、史書が載せるもが6基、うち九州には4基、四国近畿に夫々1基づつある。
史書が載せる6基は、九州王朝が百済と共に唐・新羅連合軍に大敗した白村江の戦の後衰退し、近畿王朝がとって代わった後に近畿王朝が築城したものである。九州の10基は神籠石で、九州王朝の本拠地久留米を防衛するために白村江の戦い以前に築城したものである。九州王朝の首都は、古田武彦氏のいうような大宰府ではなく、筑紫平野の中心地久留米である。瀬戸内の6基は神籠石系(型)で、九州王朝が、近畿王朝への防衛のために築城したものである。
近畿王朝一元史観の大半の研究者は神籠石に触れようとはしない。神籠石を取り上げると九州王朝の存在を認めざるを得ないからである。
また「壬申の乱の謎と筑紫都督府と大宰府」についても持論を述べられましたが、時間が無くなり駆け足の講義になりました。かいつまんでいうと次のような話だったと思います。
近畿王朝内のクーデターでしかない壬申の乱に勝利した程度で大海人皇子(天武天皇)が何故九州までを含めて全権を把握出来たのか。その訳は九州王朝が白村江の戦いで大敗して日本が唐の占領下に入り、筑紫に筑紫都督府が置かれたが、天武が筑紫都督に任命され唐の後ろ盾を得て日本全土を支配下におさめることが出来た。
サイト管理者の論評は遠慮しますが、事実のみをお伝えしますと、筑紫都督府は、旧唐書、新唐書、三国史記など外国の史書には全く出て来ず、『書紀』天智紀6年11月条にのみ熊津都督府の名と共に出てくるもので、一つの謎にもなっています。また学者が神籠石を取り上げないとのことですが、神籠石に関する論文はいくつもあります。取り上げないと言うのはどう言う意味でしょうか。

・研修旅行「古代吉備国を巡る旅」は、全行程晴天に恵まれ素晴らしい旅になりまた。
盾築弥生墳丘墓と出土品の弧帯文石、国内第4位の威容を誇る造山古墳、全国10位の巨大な作山古墳、ヤマトの大王墓のような周濠に水をたたえた両宮山古墳をはじめ、古墳成立に至る過程の研究で欠くことの出来ない黒宮大塚古墳、宮山型の名称の元になった特殊器台が出土した宮山墳墓群、巨石横穴式石室を持つこうもり塚古墳、箭田大塚古墳、牟佐大塚古墳など古墳や墳墓の他、播磨から運ばれた朱千駄古墳石棺、肥後から運ばれたピンク石石棺(築山古墳)、阿蘇石で長持形石棺を強く意識した石棺(造山古墳前方部所在)等の各種石棺、特殊器台・特殊壺や陶棺など吉備ならではの珍しい遺物、渡来人の痕跡を示す土器や竈、復元された古代製鉄跡やヤツメウナギ型炭窯、古代山城の鬼ノ城など興奮の連続でした。ただ、肥後の横穴式石室の系列に属する千足古墳は、石室の修復のため石室の内部を直接見ることが出来ず、直弧文が線刻され赤色顔料が塗布された石障のレプリカでで我慢しなければならなかったのは残念でした。

盾築弥生墳丘墓にて
造山古墳にて

・4月例会は、北九州市芸術文化振興財団の宇野愼敏先生による「古代朝鮮半島と日本列島の 武器・武具」でした。
日本の甲冑の模型を使って、日本、中国、韓国の甲冑の変遷やその違いを解り易く解説して頂きました。
日本の甲冑は、専業の集団により一か所で(ヤマト王権)作られ配布されたものと考えられ、技術的には大きくは一系統であるとの見解で、韓国出土の甲冑で日本の甲冑に類似するものは、倭系の甲冑であり韓国の甲冑とは技術系統が異なるというのが日本の研究者のほぼ一致した見解ですが、韓国の研究者は、韓国で作られたものが日本に伝わったとし見解が対立しているようです。宇野先生の講義を聞く限りでは、日本の研究者の方が説得力があるように感じられました。

宇野先生のの講演
甲冑の模型(紙製)

・3月例会は、九州古代史の会の金山和幸氏が、はるばる糸島からおいで下さり、「卑弥呼の託宣」と題して講演をして下さいました。
在野の歴史研究者高倉盛雄氏の著書『古代史の真実を問う―邪馬台国論争と化学的考古学』の主張、―”甕棺墓制の分布域は水銀鉱床分布域と重なり、『魏志倭人伝』にいうところの倭国内乱は、甕棺を焼成することによる水銀公害が原因で、卑弥呼は甕棺墓制をやめるよう託宣を下した。卑弥呼の共立と甕棺墓制の消滅が一致する。また邪馬台国は筑後川右岸朝倉地域と考えられる。―”を紹介、又高倉説を検証し、魏志倭人伝に言うところの邪馬台国の所在地については、古田武彦氏のいわゆる2倍歴、短里説をもとに須玖岡本遺跡を中心に南限は朝倉地域と考えられるとし、瀬戸内航路の確立は5世紀以降だとして畿内説は成り立たないとの見解を披露された。(サイト管理者の論評は控えます。)

金山和幸氏の講演

・2月例会は、会員の茶谷さんが研修旅行「壱岐の弥生遺跡・古墳群」の報告を行い、参加者から若干のコメントがありました。

報告する茶谷さん

・1月例会は「飛鳥美人(高松塚古墳)の4謎」と「敗北 白村江の戦」の二つのビデオを鑑賞しました。

・12月22日午後、北九州市いのちのたび博物館で、同館歴史課長の松井先生による、阿蘇のリモナイト(黄土 褐鉄鉱)を用いた古代製鉄の復元実験を見学しました。松井先生は、弥生時代にも製鉄が行われたと主張される研究者のひとりで、簡単な装置で鉄鉱石から鉄生産が出来ることを実証すべく実験を続けられています。今回も、市販の七輪を二つ合わせた簡単な装置で送風も整髪用ドライヤー、炭も市販のバーベキュー用木炭を用い、リモナイトはあらかじめ木炭を混ぜて焼成されたものを用いた実験でした。約3時間ほどで実験は終了しましたが、当日は未だ生成物の温度が高く、鉄が出来たかどうかは、確認できませんでした。

焼成したリモナイト
送風開始初期、わずかに炎が・・・
送風最盛期
実験終了

・12月例合は大分県埋蔵文化財センターの服部真和先生による「埴輪について」の講義でした。埴輪全般にわたってボリュームのある内容で、かつ解り易く説明していただいたので、埴輪についての理解が深まったと思います。
埴輪の起源は、吉備地方の特殊器台で、立坂型特殊器台→向木型特殊器台→宮山型特殊器台→都月型特殊器台(器台型埴輪)→円筒埴輪というように発展するとされていたが、宮山型は吉備では1例のみで、大半は大和であることから発展過程を見直す必要があるとのことです。
埴輪の種類では、円筒埴輪(朝顔形や壺形も含まれる)、形象埴輪の他、木製樹物、石製表飾(石人石馬)も埴輪として捉えられています。石製表飾は、埴輪を石材で作ったもののようです。
また韓半島栄山江流域の前方後円墳と連動して円筒埴輪がみられ、日本の円筒埴輪と類似したところと異なる点の両方を具備しているようです。また木製樹物<も見られ、文物の一方向のみの流入でなく、相互交流が裏付けられるようです。
埴輪の編年では、川西編年(川西宏幸『円筒埴輪総論』)は現在でもでも大筋において間違いはないとのことです。
円筒埴輪では表面のナデ、突帯の形状、透しの形状、黒点等で判定すること、家形埴輪では、閉塞技法で判定することなどを御教示いただきました。
埴輪の配置では、時代により配置場所が変わることや、埴輪樹立の意味については諸説があることなどを講義いただきました。
大分では、小熊山古墳、亀塚古墳、御塔山古墳、大在古墳、朝日天神山古墳、一ノ瀬古墳、真玉大塚古墳、牧、安岐築山古墳などから埴輪が出土しているほか、臼塚古墳、下山古墳では石製表飾も同時に出土しており、小熊山、亀塚、御塔山などは、畿内色の強い埴輪が、真玉大塚では韓半島に須恵器技法のルーツを持つと言われる淡輪技法がもちいられている。しかし朝日天神山では畿内色が希薄で、韓半島系のいわゆるミルクポット形が出土しているようです。
・例会終了後、総会が開催され、来年度の活動計画、予算案が可決されました。なお延期されていた会誌を発行することになりましたが、コストダウンの観点から、会誌の体裁を変更し横書きにすることになりました。また、例会の参加費を300円から500円に値上げすることになりました。総会終了後忘年会を開催しました。

服部先生の講義
韓国明花洞古墳
韓国の埴輪
忘年会

・11月例会は、会員の加藤さんによる「講座『家族、私有財産および国家の起源』入門(不破哲三著)」という本の紹介でした。この本は、雑誌『月間学習』に1981年8月~1982年12月まで連載されたものを1983年に単行本として刊行されたもので、100年以上も前に有名なフリードリッヒ・エンゲルスの著書『家族、私有財産および国家の起源』の解説書ですが、エンゲルス死後の新たに発見された文明なども踏まえて、著者不破哲三の解釈を内容としたものです。内容は省略しますが、原著も含め、思想書としてでなく、歴史書として一読に値すると思われます。

加藤さん講義の様子

・10月例会「古墳時代韓半島の合従連衡」は、北九州市芸術文化振興財団の宇野愼敏先生の講義でした。
韓半島の神話時代から新羅による統一までの中国大陸や遼東半島勢力も含め、高句麗、新羅、百済、伽耶諸国及びそれらの前身勢力の合従連衡の情況を、解り易く解説していただいた。ただ、講師の宇野先生も話されたように、主として中国史書に基ずくものであり、考古学的裏付けはまだかなり先のようです。。
ただ、韓国には日本製の甲冑などの武具・武器が出土する例がかなりあるとの話は、会員の皆には耳新しい話でした。

宇野先生講義の様子

・研修旅行「壱岐の遺跡を巡る旅」は雨の時間帯もありましたが、幸い見学には支障なく、有名な原の辻遺跡をはじめ、主要な古墳の他、観光スポットも見学出来て楽しい旅行でした。見学個所は下記の通りです。
1.壱岐市立一支国博物館→ 2.掛木古墳と古墳棺→ 3.百合畑古墳群→ 4.月読神社→ 5.鬼屋窪古墳→ 6.大米古墳→ 7.松尾古墳→ 8.カジヤバ古墳→ 9.鬼の窟古墳→ 10.兵瀬古墳→ 11.笹塚古墳→ 12.対馬塚古墳→ 13.カラカミ遺跡→ 14.大塚古墳→ 15.原の辻遺跡→ 16.小島神社→ 17.左京鼻→ 18.はらほげ地蔵
壱岐には、大小あわせ280基、消滅したものを含めると300基近い古墳がありますが、前期、中期の古墳は殆ど確認されておらず、竪穴系横口式の石室をもち、TK47形式(5世紀後半)の須恵器が出土した大塚山古墳等を除けば、その殆どが6世紀後半から7世紀全般の限られた時期に集中して築造されています。この現象は、壱岐内部での経済的、政治的成長によるものと考えるよりも、外部的要因を考えた方が理解し易いと考える研究者が多いようです。 壱岐の古墳の特徴は、その大半が九州系の横穴式石室を有していますが、巨石や大型の石材を用いた複室構造の石室が多く、特に3室構造の石室の多さに驚かされます。また殆どの前室の天井が羨道と同じ高さというのも面白いと思いました。また石室内部には、船や捕鯨等の線刻の装飾があるものがかなりありますが、文字等明らかに後世のものもあるようです。
三重の環濠巡らす大規模な原の辻遺跡には、この遺跡を流れる幡鉾川河岸に東日本最古のといわれる船着き場もあり、古代の交易が偲ばれます。「魏志倭人伝」に書かれた「一支国」と一致するとされるのも頷けます。
標高80mの丘陵にあるカラカミ遺跡は、鯨骨や獣骨製、石製の漁労関係遺物、楽浪土器や三韓土器などの大陸から舶載された土器、後漢鏡片などの青銅器、鉄器、占いの卜骨などが出土し、原の辻遺跡に比較すると農耕的な要素が乏しく、漁労や交易(南北市糴)に従事した集団の基地的な集落跡であったことが推測されるとのことです。またこの遺跡からは、鉄生産に関わる地上炉と考えられる炉跡が検出されており、銑屑を溶解して鉄生産が行われたのではないかとする研究者もありますが、そのまま肯定するには問題があるようです。
写真を御覧になりたい方は、左のサイドメニュー「スライド」をクリックして下さい。

 
鬼の窟古墳
原の辻遺跡にて

・9月例会「装飾古墳について」は、ビデオ「九州の装飾古墳のすべて」を予定していましたが、機器の不具合で上映が出来ませんでした。会長の佐々木さんの「装飾古墳とは何か」についての講義の後、全員でフリーディスカッションを行いました。

佐々木さんの講義の様子

・「世界遺産 ラスコー展」を見学しました。フランスに行っても今は見ることが出来ないラスコー洞窟の壁画が、三次元計測によるデータもとに作られた精巧なレプリカで見ることが出来、感嘆しました。

壁画1
壁画2

・8月例会は、4月に行われた研修旅行「韓国栄山江流域、大伽耶の博物館と古墳群」について、茶谷さん、川野さん、佐々木さんの3名から報告がありました。
茶谷さんから全般の概要報告と感想、川野さん、佐々木さからは印象に残った遺跡について、私見も含めて報告がありました。
茶谷さんは、栄山江流域の前方後円形墳丘墓の起源について興味を持たれ主要な説を紹介、また博物館を見て、文化財の発掘調査、保管、展示に国家の熱意を感じ取ったと報告されました。
川野さんは、羅洲伏岩里遺跡の伏岩里古墳群中最大規模の3号墳が、3世紀から7世紀にわたって築かれた極めて珍しい重層複合古墳(サイト管理者注:異なる埋葬原理の施設が同じ場所に造られる 、アパート型と表現する人もある。)であること、古墳群の近傍から出土した7世紀初頭の木簡から、この伏岩里遺跡には百済の官衙があったと推定されること、 また古墳群東外郭に製鉄遺跡が確認され、伏岩里古墳群勢力の影響化で製鉄が行われた可能性が高いと報告されました。
佐々木さんは、国立羅洲博物館、伏岩里古墳博物館展示の遺物に深く感銘を受けられ、栄山江流域には百済と異なる大型甕棺文化があり、後馬韓と呼びたい独自の 文化を持った勢力があり、一般に百済系とされる金銅製冠も栄山江流域のものである持論を展開された。(サイト管理者注:明らかに百済の領域であった地域からも金銅製の冠帽が出土している)また宗像地方で多く出土する縄蓆文陶質土器のルーツは 大伽耶や栄山江流域で両地域は密接な関係にあったととの発言もあった。その他列島各地で出土する半島系遺物は、大和王権の下賜なのではなく、彼の地との交流により 獲得したものであるとも主張された。(サイト管理者注:考古学会の現況は、半島系遺物はヤマト王権の下賜品という見解が大勢を占めているわけではなく、 最近では列島内の地方勢力が半島と交流を通じて獲得したとする研究者の方が多い多い)さらに、倭系の円筒埴輪や朝顔形埴輪が樹立されていたことや、'96石室の構造は九州の番塚古墳や関行丸古墳の石室と酷似しており、内部に 甕棺が埋納されていることは、被葬者が栄山江流域出身者であるのに、倭のの工人が埴輪や石室を造ったと考えられ、活発な交流を窺わせるものだととも述べられた。

茶谷さんの報告
川野さんの報告
佐々木さんの報告
伏岩里古墳群の埴輪

・7月例会は、みやこ町歴史民俗博物館の井上信隆先生より、自身も発掘に従事された三ツ塚古墳群の発掘調査について御講義をいただき、大変興味深く拝聴しました。概要は下記のとおりです。
三ツ塚古墳群は、みやこ町犀川の今川左岸の丘陵尾根上に位置し、20m規模の3基の円墳と同規模の1基の方墳からからなる古墳群で、北には黒田官兵衛が城を築いた 馬ケ岳が、北西には朝鮮式山城の御所ケ岳神籠石があり、九州の拠点として古代から近世には重要な位置に立地し、この地方の首長墓ないし、それに次ぐ有力者の墳墓 であった考えられます。昔から三つの円墳が目立ったことから三ツ塚という名前がつけられたものと考えられます。
2基の円墳は平成8年に調査が行われ、横穴式石室をもつ古墳であることが確認され、1基の方墳は平成平成27年度に調査されて、この付近の花熊付近で採取された花崗岩 の組合せ式箱形石棺(赤色顔料塗布)に、行橋市の海岸で採取された緑色片岩を敷き詰めた埋葬主体が確認されています。
もう一つの円墳は、昨年から現在も調査が行われ、埋葬主体が前の二つの円墳と同じく複室構造の横穴式石室であり、室内には全国的にも珍しいT字形の 排水溝が設けられ、墳丘は版築技法により築造、周囲に最大巾4.5mの周溝と周堤が確認されています。
残念ながら横穴式石室の石材は、石材の採取を目的とする盗掘が行われ、殆ど残っていません。
又調査によて、この古墳の立地する遺跡は、旧石器時代から中世にわたる複合遺跡であることが判明しました。方墳の下層からは珪化木(木の化石)の細石刄核など旧石器が出土し、その上の層からは弥生時代の貯蔵穴が見つかり、フラスコ形弥生土器などがあり、上層からは中世の積石塚などが確認されています。 円墳では、その下層から、弥生時代の猪捕獲用のの落とし穴、竪穴式住居跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、小児甕棺などが発見されました。
※講演の中で、「福永先生が発掘現場に見学に来られました」との話がありましたが、この「福永先生」は、古田武彦氏とは違った九州王朝説を唱えている 東京都立第5商業高等学校で教鞭をとっておられた(現在も同職なのかどうか不明)「福永晋三氏」のことで、大阪大学教授で考古学者の「福永信哉氏」ではありません。

井上先生の講義風景
三ツ塚古墳群3号墳の発掘調査風景

・6月例会「弥生時代の鉄生産」は、いのちのたび博物館の松木和幸先生の「阿蘇のリモナイトから弥生製鉄を考える」と題した講演会でした。
日本列島内の製鉄は、専門家の間でも弥生時代から始まるとする見解と、古墳時代以降とする見解とに分かれますが、松井先生は前者の立場から阿蘇のリモナイトを用いた原始製鉄の実証実験を行っておられます。
①弥生時代に鉄生産が行われていたと考えられる理由として次のようなことを挙げられています。
②阿蘇谷の弥生後期の鉄器を多量に出土する遺跡があり、それがリモナイト分布域と一致する。
③阿蘇谷の弥生後期の鉄器量は、桁違いに多い。
④山内裕子氏のベンガラを用いた製鉄実験の成果。
⑤リモナイトは、近年まで製鉄所で製鉄原料として使用されていて、古代の製鉄原料になり得たと思われる。
課題や問題点についても言及されました。
①阿蘇谷では弥生時代の製鉄遺跡が見つかっていない。しかし広島県三原市の小丸遺跡で弥生時代のものと思われる製鉄炉跡を確認している。(小丸遺跡の製鉄炉跡は、3基並んでいて、その内の中央の炉跡の炭の炭素年代が古く、他の二つは古墳時代以降の炭素年代であり、松井先生の見解を疑問視する見解もある。― 管理者注)
②また阿蘇谷では、弥生時代以降の集落遺跡は古墳時代まで継続しない。これについては、他地域の新しい製鉄生産システムにとって代わられたか、自然災害によって消滅したのではないかと考えてている。
結論的には、日本列島では弥生時代にも小規模な製鉄と韓半島からの鉄素材の輸入で賄っていたが、その後古墳時代に新しい製鉄システムが入って従来のシステムが消滅したと考へられる。今後も実験を重ね、鉄器生産の素材となり得る鉄塊を作り出したい。
大変有益なお話でした。なお松井先生は、いわゆる「野たたら」と言われる自然通風の製鉄の可能性については否定的であることを付け加えておきます。

松井先生の講義風景

・研修旅行「県北の廃寺跡と条理跡」
次のような遺跡を巡り、充実した一日を過ごしました。 ①古墳時代から鎌倉時代までの墳墓が連綿と築造された「相原山首遺跡」は円墳、方墳、横穴式石室、火葬墓、土壙墓と多彩で、この地方の郡司を務めた一族の墳墓と考えられているそうです
②三重の塔があったとされる「相原廃寺跡」(基壇)と移設された塔の礎石(瑞福寺)や金堂等の礎石(貴船神社)
③奈良時代当時の景観が偲ばれる「沖代条理跡」
④大分県立博物館(学芸員の先生から川辺・高森古墳群と古代廃寺の説明を受けました。6基の前方後円墳は赤塚古墳が3世紀末で最も古く、鶴見古墳が最も新しく6世紀と考えられるそうで、その他多数の古墳が存在するそうです。) ⑤虚空蔵寺跡、弥勒寺跡(宇佐神宮境内内)(ボランティアガイドの方の案内で理解が深まりました。虚空蔵寺は宇佐氏、法鏡寺は辛島氏、弥勒寺は大神氏の寺で、やがて宇佐神宮に統合されていくとの話でした。)

相原山首遺跡の出土遺物に見入る一行
虚空蔵寺跡の標識

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・研修旅行―韓国 大加耶と栄山江流域の旅―
 古代史の会・大分は、九州古代史の会(本部 福岡市)と合同で、2017年4月12日~16日4泊5日の日程で、主に韓国南部地方訪ねました。 総勢19名が参加、博多港・釜山港間は、カーフェリー「カメリア号」で、韓国内は、専用バスを用い、博物館6館、古墳群6か所、走行距離にして約830kmを巡る旅でした。 現地女性ガイドは、日本語で説明し、訪問先の事前調査を行っていて効率よく見学出来ました。 訪問・見学先下のは下記のとおりです。 
①高霊池山洞古墳群 ②大加耶博物館 ③大加耶王陵展示館(以上慶尚北道高霊郡)④国立光州博物館 ⑤月桂洞古墳 ⑥明花洞古墳(以上全羅南道光州広域市)⑦伏岩里古墳・出土品展示館 ⑧国立羅州博物館(以上羅州市)⑨羅州潘南古墳群(羅州市潘南)⑩霊岩チャラボン古墳(霊岩郡)⑪国立海洋文化財研究所(木浦市)⑫海南長鼓山古墳(海南郡) 
 高霊大加耶博物館は3年続いての見学でしたが、日本語の音声ガイドを設置、展示室には、沖縄産貝殻を加工して作られた夜光貝 杓子も見られ、古代、日本と加耶間の文化・文物の交流を興味深く見学しました。
 ⑤⑥⑩⑫は前方後円形古墳で、その起源に興味をもちました。 朴 天秀教授(慶北大学校 考古人類学科)は、「韓半島南部で発見された前方後円墳は、栄山江流域を中心に現在13基を数える。前方後円墳が弥生時代の墳丘墓から進化して、3世紀中葉に日本列島で出現すること、栄山流域の前方後円墳は造営時期が6世紀前半に限定されることから、この墓制の起源が日本列島にあることは再論の余地がない」断定しています。(朴 天秀著『加耶と倭―韓半島と日本列島の考古学』講談社メチエ 2007年10月刊)
 また、訪問した博物館では、国家による文化財の発掘・保存に対する熱意を感じました。多くが観覧料無料で、子供達も親しめるよう展示に工夫を凝らされています。展示室の解説はほとんど韓国語と英語だったが、多くの館で、日本語のパンフレット、図録などを準備されていました。

大伽耶王陵展示館にて 2017/04/13
池山古墳群と大伽耶博物館

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茶谷勇司 記

     

・大分県埋蔵文化財センター 小林明彦先生の講義
 大分の古代寺院と瓦を中心に古代寺院の伽藍配置の分布や瓦の種類と分布の講義があった。
大分の古代瓦は、畿内系では虚空蔵寺跡、法鏡寺跡、弥勒寺跡、半島系では、虚空蔵寺跡、垂水廃寺、等が新羅系、法鏡寺跡、虚空蔵寺跡、弥勒寺跡、相原廃寺が百済系、 太宰府系では、弥勒寺跡に鴻臚館式、豊後国分寺に老司式軒丸瓦が見られる。 また、軒瓦の変遷についても詳しい説明があった。

小林先生の講義風景

・研修旅行報告(4/11)
 唐津・糸島研修旅行の報告がありました。
参加者の髙坂さんが全般報告(詳細はこちら)、茶谷さんが伊都国歴史博物館の概要、平原遺跡出土の銅鏡や硯の説明の他、原田大六氏の業績などにつき報告(詳細はこちら)がありました。

・大分県立歴史博物館 稗田先生による講義(3/14)
 縄文時代から飛鳥・白鳳時代の顔料・装飾古墳の顔料、顔料の素材、蛍光X線分析装置による顔料の分析方法などの講義のあと、実際に蛍光X線分析装置を用いて、 会員持参の鉱物・岩石を分析し、楽しい一時を過ごしました。

稗田先生の講義
蛍光X線分析装置と稗田先生

・「宗像・沖ノ島と大和朝廷」展(2/28)
 沖ノ島の遺跡出土の三角縁神獣鏡や金製指輪などの国宝指定遺物をはじめ、韓国出土の遺物、 日本列島各地からの出遺物約160点が展示され、見ごたえのある企画展でした。ゴホウラ貝の供給地種子島広田遺跡出土の貝輪、大阪府今城塚 古墳出土のピンク石石棺片、三重県宝塚1号墳出土舟形埴輪、奈良県島の山古墳出土の巨大な鍬形石、奈良県小立古墳出土石見型木製表飾など、なかなかお目にかかれないものばかりです。

エントランスの埴輪レプリカ
沖ノ島7号遺跡出土金製指輪

・川野洋一さんの研究発表(書評)(2/14)
 朴天秀著『日本列島内の大伽耶文化』(ハングル語)及び『伽耶と倭』の内容を紹介。概要は下記のとおりです。
日本列島には、日本の弥生時代から古墳時代中期にかけての韓半島南部の伽耶諸国 (金官伽耶、阿羅伽耶、小伽耶、大伽耶)と呼ばれる伽耶地域由来の遺物が数多く存在する。 これらの遺物は、金官伽耶系、大伽耶系などとよばれ地域的な特色をおび時期も異なっている。 一方伽耶地域にも同時代の倭系遺物が確認されている。このことは、伽耶地域の活動の中核が移動するものの、 倭と伽耶地域の活発な交流を物語るものである。
これをどのように解釈するかについて、韓国からの一方的な文化の伝播と考える見解や、大和政権の任那支配と 云うような侵略的史観のような一方的な歴史展開の考え方を排し、日韓交流の相互作用と云う視点から捉え、 倭国の古墳時代の政治変動が、伽耶諸国の政治活動の中核の変動と関連すると考える。 倭の政治変動は、伽耶からの文物の流入によってもたらされる技術革新に対応出来た集団が台頭し、そうでない集団は没落 する現象である。
また、列島内の伽耶系遺物の分布を見ると、大伽耶の滅亡までは大和王権が列島を一元的に支配出来たとは思えず、 大和王権を中心としながらも、各地の首長も夫々活発に伽耶地域と交流を図ったと考えられる。

川野さんの研究発表
二本松山古墳出土の伽耶系「冠」

・玉田さんの研究発表(1/11)
 「瀬織津姫神」を中心とした玉田さんの精力的な研究成果(「エミシの国の女神」「八幡比咩神とは何か」菊池展明著の本を参考)の発表がありました。 内容が高度で理解出来ないところもありますが、およそ次のような内容でした。
瀬織津姫神は、水源神、瀧神、川神、祓神であり、皇祖神アマテラスの祖型神でもある。瀬織津姫神を主祭神とする神社が全国に分布しており、また天照大神の荒魂としての瀬織津姫神を祭神とする神社もある。 さらに、八十枉津日神などと、ご神名を変えられて祀られているものが沢山ある。伊勢神宮は、元々地主神の天照大神(太陽神)と一対の神である瀬織津姫神(文献ではホツマのみ)が祀られていたが、天照大神が女神のアマテラスに変えられ、瀬織津姫神は天照大神の荒御魂とされた。内宮別宮の荒祭宮である。 宇佐神宮の祭神三女神のうち多岐津姫神は、瀬織津姫神である。全国の三女神の中に少数だが多岐津姫神に代わって瀬織津姫神の名が用いられているのが傍証である。
その他、宇佐八幡の幡と瀬織津姫神との関係、放生会や熊襲・隼人などにも話が及びました。

玉田さんの研究発表
伊勢神宮別宮「荒祭宮」

・佐々木さんの研究発表
 瀬戸内海沿岸でには、古墳時代の九州系横穴式石室や、九州の有明海沿岸で製作された石棺が分布することから、有明勢力(有明王国)が瀬戸内海に進出したとの持論を披瀝されたました。
また、瀬戸内だけでなく、全国的に九州系と考えられるの埋葬施設が分布し、それらから有明海沿岸で出土する冠などの威信財を伴うことが進出を窺わせる証拠であると述べられました。そして、吉備に大規模製鉄遺跡が存在することから、進出の目的は鉄の獲得であると述べられました。
発表後、活発な質疑応答が行われました。      

佐々木洋さんの研究発表
忘年会の風景

・台風のため延期になっていた研修旅行「唐津湾周辺、糸島半島の古墳、遺跡と博物館の旅」が12月6日~7日で終了しました。2日間とも晴天に恵まれ、宿泊したホテルも快適で素晴らしい旅になりました。
 1日目は、早期の前方後円墳である久里双水古墳、国内最古の水田跡が見つかった菜畑遺跡とその出土品を収蔵する末蘆館、九州では珍しい長持形石棺を納めた谷口古墳とその関連遺物やレプリカなどを収蔵する浜玉町歴史資料館肥後系の横穴式石室をもつ樋の口古墳を巡りました。
 2日目は、九州最大級の円墳で、竪穴系横口式石室をもち石見型木製埴輪が出土した釜塚古墳、在野の考古学者原田大六に始まり、生徒が発掘した遺物のみを収蔵する糸島高校郷土博物館の多数の「お宝」、古代伊都国の王墓として有名な平原遺跡とその出土品を収蔵する伊都国歴史博物館、石竪穴系横口式石室の中に、珍しい形に配置した側板と特殊な加工を施した蓋板をもつ組合せ式石棺を納める丸隈山古墳を見学しました。
 博物館、資料館では学芸員やランティアの方から詳しい説明を受け大いに見識を広めることが出来ました。  

最古の水田遺跡の説明を聞く
谷口古墳石棺レプリカ
釜塚古墳
丸隈山古墳石室
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